モラハラ父とカサンドラ母とモラハラ夫と私

モラハラモラハラ・DV

今日、私に起こった(私が起こした)出来事。
長年モラハラ父とカサンドラ母の子供として抱えていた問題、トラウマ、生きづらさ。
それらによって無意識のうちに宿命的に選んで結婚してしまったモラハラ夫とのさらなる苦しみが、今日の出来事によって全てが繋がりました。

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カサンドラとは、モラハラ加害者やアスペルガー症候群の配偶者やパートナーに生じる、身体的・精神的症状を表す言葉(カサンドラ症候群

私の父は、昭和の亭主関白を絵にかいたような頑固でワガママ、自己中心的な父親でした。
具体的に言えば、ほぼ毎晩飲み歩き、育児や家事は一切関与せず、週末はゴルフ、そして愛人と旅行、母には最低限の生活費しか渡さず車道楽、などなど。
私が2~3歳だった頃のかすかな記憶では、よく両親は喧嘩をし、父は母に当たり散らし暴言を吐き、私が大泣きすると父が私を車に乗せ数時間頭を冷やして家に帰る、ということが何度かありました。
しかし、私が小学生の頃にはもう両親は喧嘩さえせず、母は諦め、言いなりになることを受け入れ会話もなく夫婦仲は完全に冷え切っていました。
それでも年に1度、父の会社の同僚家族らと会社の保養所に家族旅行に行っていました。
父はモラハラの特徴でもある“外面が大変良い”ので、他の同僚らがいる手前良い父親を演じていました。
当時の私は“外面が良い”ということは分かりませでした。
なので旅行に行くと父が機嫌が良く、母もそれに合わせて楽しそうにしていたので、そんな家族旅行が好きでした。
(でも大人になって久しぶりにアルバムを開いたとき、私は気づきました。
父が撮った写真の中の母は、全く笑ってないことを。)

母はカサンドラ症候群の特徴である「無力感、孤独感」を常に抱え、それを娘である私への執着として転化し、私に依存するようになりました。
そんな母や家庭の雰囲気が苦痛で、私は思春期になると家庭では最低限の会話しかせず、笑わず、不愛想な娘になりました。
本当は早く家を出たかったのですが私や兄の為に、いくつもパートを掛け持ちし大学に行かせてくれた母の苦労を見ていたので、家のすぐ近くの会社に就職しました。
そして、私が働き出して間もなく、大事件が起きました。
母も全く知らなかった「父の隠し子」から家に手紙が届いたのです。
今まで父の浮気を見て見ぬふりを続けてきた母もこれには激怒し、ついに「離婚する」と私に言いました。
私は父と母、それぞれとまず話をし、そして二人で冷静に話し合いをするようにと勧めました。
結果、口の上手い父に母は言いくるめられ、結局離婚はせずにそのまま夫婦を続けていくことになりました。
しばらくは父も浮気をやめたようでしたが、でもまた数年後には母を上手く騙し、また愛人と会うようになっていました。

私は苦労するような男性ばかりと付き合うようになり、そんな男性と共依存するような恋愛を繰り返し、ようやく30代後半で結婚しました。
相手は私が苦労するような要素はなく、真面目でマメで優しかったので交際1年で結婚を決めました。
それが結婚後モラハラ夫に豹変したのです(モラハラ加害者の典型的なパターン)
あれほど嫌いだった父と、結局同じような男性と結婚してしまったのです(モラハラ被害者にありがちなパターン)

結婚後モラハラが少しずつ始まり、モラハラとハネムーン期を繰り返し、子供が生まれるとモラハラはさらに激化し、全人格否定するようなことを言われても、私は話し合いをしたり説得をしたりして、戦っていました。
でも、育児で寝不足になり、経済DVも受けていたので、生後4か月目で仕事復帰し、ストレスも疲れも溜まり、ボロボロの状態で段々戦意も失い、夫からの暴言もひどい仕打ちも、私の母と同じように黙って受け入れ、受け流していくようになりました。
私は完全にうつ状態で、心療内科でたくさんの薬を処方されるようになっていました。
そんな無反応で無表情の私を見て、夫は子供を虐待するようになっていきました。
4歳の子供を守れるのは私しかいません。私は気力を振り絞り、しばらく別居して欲しいと夫を説得しました。
別居してから2~3年はモラハラのトラウマやフラッシュバックに苦しみ、無気力、無感情のままでした。
知人にカウンセリングを紹介してもらい、そこでインナーチャイルドの癒しや様々なワークを受け少しずつ自分を取り戻し、そして弁護士に離婚協議を依頼し、別居から5年たった今も、協議は膠着状態のままです。
 先日カウンセリングで言われました。
「“なぜ離婚してくれないんだ、悔しい、苦しい”、そういう執着を手放してください」と。
そうやって握っているから、離婚が進まない、と。
そして手放し方等、説明してくださいました。
その後、手放しワークを続けていくと、だんだん気持ちがラクになっていきました。

そして、今日の出来事です(前置きがかなり長くなりました)

父は現在、ガンと腎不全で1年近く入院しています。
病気になっても父は相変わらず、というか更にワンマンで、ワガママで、母をこき使います。
もう若くない母は体に不調を抱えながら、父が入院する病院を往復しています。
80近い父は入院前から段々と運転が不安な状態になっており、入院中は透析と何度かの手術を行っているにもかかわらず、免許更新に行くと言い出しました。
運転はもちろん家族中反対で、でも、母のお願いは聞くはずもなく、兄が何度も説得しても全く耳を貸さず、とうとう兄は父と縁を切る、と匙を投げました。

あと1週間で免許更新の期限がくるという今日、退院の許可が出てしまいました。
父はすぐにでも退院して、自分が警察署に行き更新の延長申請をしてくる、と断言しました。
父がそこまで免許にこだわるのは、愛人に会いに行くためだけ、なのです。
そんなこと母には言えないので母には「車が生きがいだ」とか言っていましたが、兄も私もそして母もわかっています。
それで、私が入院中の父に電話し説得することになりました。
私が最後の砦、なのです。
兄とも相談し、いろいろ考え、そして父に電話をし、始めは冷静に説得を試みましたが先に父がキレ、「俺の生きがいを奪うのか、家族なのにみんな冷たい」と怒りだしたので、私も冷静さを失い、「そんなに愛人の所に行きたければ、退院しても家に帰らず愛人の所に行って介護してもらったら」と言ってしまいました。まぁ電話する前からこの展開になるのは分かっていましたが。
そして、浮気やモラハラや経済DVで、母は今までずっと苦労してきたこと、母は自分のことを奴隷だと思っていること、それなのに入院中も退院後も献身的に尽くそうとしていることを理解し、感謝して、そしてこの先長くないのだから母を大事にして二人仲良く暮らして、と父に言いました。
途中父は何度も反撃しようとしてきましたが、言葉を遮り一気に捲し立てました。
そして最後にダメ押しで「父さんのことも母さんのことも大好きだから、お願いだからこれからの短い人生二人仲良く暮らして」と懇願しました。
これは言った後に自分でも驚いた言葉でした。
私はずっと母も父も心の奥で嫌っていました。そんな自分が嫌いでした。
でも、ふいに出た“大好き”という言葉、本当はこれが本意で、私が言いたかった言葉ではなかったのか、とそう感じました。
父は「わかった」と言いました。
本当に分かったのかはわかりません。

私は今まで、口喧嘩や討論など自分の思いを伝えることが苦手で、特にモラハラ加害者に対しては幼いころからの面前DVのトラウマのせいで、思考停止と防衛反応のため固まって何も言えなくなっていました。
しかし今日は理論立てて話し、途中お互いが冷静さを失っても落ち着かせ説得し、そしてずっと父に言いたかったことを言え、電話を切る前には「ひどいこと言ってごめん、ありがとう」と父に言うことができました。

このことで、いままでの出来事が全て繋がっていったように思え、わだかまりやトラウマをもうこれで手放せる、もうつらい過去は終わったんだ、そう感じ、そう自分に言いました。
「今までつらかったね、でも、もう終わったよ」って。
とても清々しい気持ちになり、モラハラ夫のことも、なんだか一区切りついた、そんな気持ちになりました。

そして更に、このブログを書いている間に新たな動きが!
現在モラハラ夫とは弁護士を介して連絡を取り合っているのですが、緊急の連絡のラインが夫から届きました。
その文面が今までのものより軟化しているのです。

いろんな“手放し”をしていくことで、今まで膠着していたことが動いていきそうな、そんな予感がしています。

モラハラ

サボテン(モラハラ加害者)を気に入ったバラ(カサンドラ症候群)だが、サボテンに合わせて砂漠に住むのは難しかった。生きていくために水がほしかったが、少しずつしおれ、やがて何も感じなくなった。サボテンの愛し方を知らず、バラに変えようと一生懸命だった。サボテンはバラのように振る舞ったが、一人のほうが心地よく、孤独に戻っていった。しおれたバラを、ほかのバラたちは仲間はずれにした。やがて、サボテンには別の愛情の示し方があると知り、サボテンは変種のバラではないと気づいた。二人が同じ植物になるより、違いを受け入れ、お互いを大切にし合おう。
二人の子供は、バラの野生・繊細さ・色鮮やかさと、サボテンの頼もしさ・強さ・人を惹きつける魅力を併せ持つだろう。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

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